教えることや賞賛することを考えたことはなく、運命の心が私にこのように慎重に生まれさせ、多くの思索を与えてくれたのだろう。出会いでも別れでも、心の中に静かに多くの思いが湧き上がることがある。思いを巡らせると、それは普通の姿である。これが愚かさの理由であるのかもしれないが、どうしてもこの心の中の味わいを手放すことができない。考えてみれば、手放せないものを癒す良い方法などどこにあるのだろう。徐々に、ゆっくりと、過去のことに関しても明確に理解できるようになり、過去がどうこうということはなくなったが、やはりこの杞人の病は改められず、気にかけていることや特に愛おしい眉目や影に対して、ますます思いが募る。窓の前に霜が降り、月がどれほどの悲しみを味わっているのか。
こうして、流れに逆らう美意識が拭われ、彼女の細い眉が少ししかめられるのを見ると、心が痛む。窓の外で春の光を浴びて、楽しそうに歌っている梅花雀や金青を見ていると、あまりにも転々と考える必要はないのだと感じる。運命に感謝し、この青緑の間で客として過ごす幸運を享受し、日常と普通のことに心を砕いている。今は以前のように苦しむこともなく、前方や遠方の道で出会うものがどのようなものかを尋ねることもない。秋士の俗っぽい筆の下で、淡く広がるのは柔らかさか、それとも悲しみか。この時、心の中で手放せない思いは、もはや無心の思いではなく、自ら意図的な執着に変わり、心の中の清らかな水はこのように軽やかに表現されることはない。歩くほどに、見るほどに、この心の執着が、さらに貴重な理解と明確さをもたらす。過去や現在について語るとき、それは意図的で心のあるものである。
このようにして、影が一つ一つやって来て、また一つ一つ去っていくのを許すことにしよう。どうしても許されないわけではなく、ただどうしても探し求めることができない。以前、運命についてこのように語られるのをよく聞いたが、今も運命についてこのように対話している。おそらくこのような思いは、どうしようもないものであり、ただこの韻の意味を堪えるしかない。しかし、物語はどこで読者の期待や望みによって書かれるのだろうか。もし何かの妙法や良策があれば、どうやって変化をもたらすのだろう。過去は過去と呼ばれるべきではなく、未来は未来と呼ぶ必要もない。深く思いを巡らせることは、こうした理由から生じるものであり、心を込めた執着があるのだ。
今目の前にある春の光と月の光は、ただこの時の明るさと清らかさであるかもしれない。瞬時にどこに行ったのかもわからず、一瞬で秋の霜か冬の雪が訪れるのかもわからない。しかし、少なくとも今この眉間と心の影は、「軽衫乍試初枝裊、暖靄纖翩朗碧遙。柳眼徐開余睡意、梅方款款漸盈窈。」の温もりを持っている。もうどう探す必要もなく、どう求める必要もない。
その後のことは、もしも今この時にすでに知っていることであれば、詩情やロマンに関しては、もはや誰も筆を取ることはないだろう。
どうしても玄理や天機について語る必要はなく、もし私が無心でカーテンを引かなければ、春の光や月の光を見ることはなかっただろう。
この文は Mix Space によって xLog に同期更新されています。原始リンクは https://nishikori.tech/posts/prose/2020-04-21