NISHIKORI

風結ぶ言葉たち

惟幾山水、未だ憂いを抱かず

念ってみると、避けられないし、しかもこんなに明確に言ってしまうと、人に恥ずかしくなるように教えることになるかもしれないけれど、考えてみるのも悪くはない。考えてみると、こんなにも独特な魅力があるのだと、私もその山を見たことはないけれど、ただ誰かが話したり、文章で描かれた影を聞いただけで、それが水であるかどうかはまだわからないけれど、普通の、平凡な、ただただ情熱を抱いている時にしか共有できないものだ。

でも、共有するときは、時々、よくあることよりもよくあることが多く、その一筋の眉目はますます淡くなり、その一筋の影はますます薄くなっていく。ただただ懐かしむだけではなく、私には考えもしなかったことだ。この夢の中で、夢から覚めることもあるということ、ますます深くなっていくということ、もうはっきりとはわからないけれど、もう意味をなさなくなってしまった。それでも夢の眉目なのか、私の影なのか、酔っているのか、ただ表現しているだけなのか。

そして、よくあることは、私にとっては深くなっていく眉目と影を深くすることを教えることで、普段はあまり香り高くないものだ。ただただ淡くなっていく墨の影、よくあることは浅くなっていくことが多く、私にとってはますます解けない思考をもたらす。それでも、漸減していくのは深くなる思いだ。

昔のように考えると、自然と、自分では制御できない、この心の中で、すでに遠くなってしまった眉目と眉目を、ますます影に変えていくことになる。そして、徐々に、どういうわけか、一つの池が濃くなり、薄くなっていく。

山は墨の中でますます青々となり、水も墨の中でますます澄んでいく。一筆一筆の影と懐、一脈一脈の懐と影、よく考えると、濃いか淡いかに関係なく、無意味になることがよくある。考えてみると、無意味になることがよくあるのに、無意味になることがよくある。

また、このような懐と情熱は、まさに無関心で、再び心を持たない私が描いた風景のようなものだ。

そして、もう一つは明らかな思いで、言わずともわかるような情思は言うまでもない。思ってみると、意図的ではないけれど、私は深く美しい瞬間に触れていると感じる。眉目の間にはますます淡くなり、濃くなり、消えにくい影の輪郭がある。それは自然に起こるものである。

考えてみると、私はもう明確にわかっている。これはただの妄想だ。このように言ってみると、適切であり、この時の甘い思いは、以前の淡い墨色に似ている。それで終わりだ。しかし、それは甘い思いが来たり去ったりするものであり、それはただ言っているだけだ。

大体、こんな縁だから、私はもう山と水を見ることを望まず、意図的に凝視することもなくなった。それはただ無心になるだけで、無心になるだけである。

そして、ますます私は、月の色を見ることを我慢できなくなった。淡い銀色の瞳でも、心に浮かぶ影でも、ただ一人で見ることを恐れているからだ。

山と水は墨色に染まっているだけで十分だ。憂いを抱く月と、清められた夢を見た山と水、私はもう一緒に眠ることを我慢できなくなった。

だから、もう何も言わないで、どうしてこんなにも懐かしいのかを考えることはない。

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